岡田斗司夫の新オタク日記 2003年3月10日

まず最初に「評論とはこうである」という定義を述べた。
客観的事実を重ねて述べるのが研究。
私にとって何か? ということを書くのが、私語り・エッセイ。
この二つの要素がうまくミックスされているのが、評論である。
客観的な事実ばかりだと、減点。
私語りばかりも減点。

これは非常にわかりやすい定義付け。評論と研究、エッセイの仕分け。

司会者が「アニメ文化発展のために、評論を」と宣言文に入れさせようとしたので、思わず大反発してしまった。
ふざけるな。
アニメ評論に賞をあげるのは、「アニメ評論」を育成・発展させるために決まっている。
アニメを発展させたいのなら、アニメを募集して、アニメに賞を与えれば良い。
というと、この司会者が真顔で反論してくる。「だって、アニメあってのアニメ評論でしょう?」
違う、間違っている。
映画あっての映画館という関係はなりたつ。それは、ソフトウエアとハードウエアの関係だからだ。
しかし、アニメとアニメ評論は、両方ともソフトウエアであって、それぞれが独自に作品性を持ってしまう。
まんがをアニメ化しても、まんがあってのアニメとは言わない。
過去、アニメ界は「まんがという原作あってのアニメだ。アニメなんかオリジナリティはなく、まんがに寄生した存在だ」とずーっと言われ続けていた。ヤマトやガンダムが大ヒットしても、それでもまんが原作でないオリジナルアニメの企画を通すのは、本当に難しい。

アニメとアニメ評論は別個のもの。どちらもがソフトウェア。