金方慶 - Wikipedia

元寇での蛮行
金方慶元寇において、戦略的に見て価値が乏しく、防備も薄い対馬壱岐に執着し、膨大な非戦闘員を殺戮した人物としても知られている。
金方慶麾下の高麗軍は、対馬壱岐において、島民を見つけ次第、男子は老人・子供を問わず斬殺し、女子は集めて暴行・陵辱した後で、手の掌に穴をあけ綱を通し、数珠つなぎにして船舷にぶら下げ、人間の盾とするなど、蛮行の限りをつくした。
山に逃れ、潜む島民をも執拗に捜し回り、赤子の泣き声を聞き付けては、島民をことごとく捕らえて虐殺し、泣き叫ぶ赤子をも股裂きにした。その残忍さは、捕らえた妊婦の腹を裂き、胎児を掴み出して殺害するほどの徹底ぶりで、中には命惜しさから、愛する我が子を刺し殺して逃げ隠れする者や、我が子の口を塞ぎ、窒息死させる者もあったと伝わる。
二度に渡る元寇で、対馬壱岐は壊滅的な打撃を受けた。家屋は残らず焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、7000頭居た壱岐牛は一頭残らず狩り殺されたといわれる。壱岐に残された人口は、わずかに65人だったとの記録があり、現在の壱岐島民の多くは、元寇の後、佐賀県や福岡県から渡って来た移住者の子孫とされる[7]。これらの残虐行為は、遠征目的とは何の関係もなく、民・百姓の殺傷を禁じるクビライの厳命をも無視したものであった。

元寇の主力は高麗の軍、韓国軍だとはもっと知られていい事実。