- 2003年3月16日〜3月31日創作と評論
例えば、僕にとって、クリエイティブという言葉で最近もてはやされている「創作」という行為に関して、特別の価値を見出していない。
同様に、評論というジャンルを、創作に付随するものだという、「創作=偉い」「評論=創作より下」という考え方もしていない。
どちらも「表現」の一手法だから、強いて言うなら同列である。
人間とは、心に何かを印象付けられたら、それを他人に向って表現したくなる生き物だ。
(中略)
コミュニケーションというのは、周囲から刺激を受け、周囲に刺激をかえすことだ。
刺激をかえすとき、人間は様々な表現方法を選ぶ。
平面の上に絵を描くという方法だったら、アートになったり、イラストになったりする。立体物を作るのだったら、彫刻になったり、フィギュアになったりする。
書き文字なら、評論になったり、小説になったりするし、話し言葉なら日常会話になったり、漫才になったりする。
そういう目で見れば、アニメーション作品も、その評論も、まったく同列としか見えない。が、イベント会場のパネルディスカッションで、こんな大前提から懇切丁寧に話せるわけはない。
(中略)
僕が、かいつまんで話をすると、岡部まり氏が、割って入ってきた。
「アニメーション作品と評論は、両立するようにお互いに助け合うのが、いいんではないでしょうか」
違う。両立するからいい、のではなく関係ない、というのが正しい。独立ということだ。
泊さんの言葉にも、岡部さんの言葉にも、明らかに差別がある。これを、白人社会と黒人社会というアナロジーで考えてみよう。
泊まりさんが言っているのは、「黒人は、白人社会が活性化するように、がんばってほしい」といっているようなものだ。
岡部さんの意見は、「白人と黒人は、助け合って両立するようにしていくのがいいのではないでしょうか」ということだ。
双方共に、差別観を含んでいる。
本来は、「お互いに、お互いの独立を認め、不必要な干渉を避け、相手を尊重すべきである」というのが、正しい態度のはずだ。
そこへ評論家の切通理作さんが「僕は、クリエイターがやる気になって良いと思って評論を書いています」と発言した。
名誉白人ような彼の意見は、黒人社会にとっては裏切り者だ。
(中略)
よく女性が「好きになった人が、好みのタイプ」などと言うが、男の場合「好きになってくれる人が、好みのタイプ」なのだ。
(中略)
結婚向きの男の第一条件は「浮気しない男」らしい。
で、「岡田さん、浮気しない男って、どうやって探せばいいでしょう?」となる。
現実問題として、浮気しない男は二種類だけ。女(人間)に興味がない男と、もてない男だ。
まず最初に「評論とはこうである」という定義を述べた。
客観的事実を重ねて述べるのが研究。
私にとって何か? ということを書くのが、私語り・エッセイ。
この二つの要素がうまくミックスされているのが、評論である。
客観的な事実ばかりだと、減点。
私語りばかりも減点。
(中略)
アニメ評論に賞をあげるのは、「アニメ評論」を育成・発展させるために決まっている。
アニメを発展させたいのなら、アニメを募集して、アニメに賞を与えれば良い。
というと、この司会者が真顔で反論してくる。「だって、アニメあってのアニメ評論でしょう?」
違う、間違っている。
映画あっての映画館という関係はなりたつ。それは、ソフトウエアとハードウエアの関係だからだ。
しかし、アニメとアニメ評論は、両方ともソフトウエアであって、それぞれが独自に作品性を持ってしまう。
まんがをアニメ化しても、まんがあってのアニメとは言わない。
過去、アニメ界は「まんがという原作あってのアニメだ。アニメなんかオリジナリティはなく、まんがに寄生した存在だ」とずーっと言われ続けていた。ヤマトやガンダムが大ヒットしても、それでもまんが原作でないオリジナルアニメの企画を通すのは、本当に難しい。
あんなにヒットしたエヴァだって、まず原作という扱いになるまんがを数ヶ月連載してからでないと、アニメの発表が出来なかった。宮崎さんの活躍で状況は相当に改善されたけど、でも「まんがあってのアニメだろ?」と考えている人はいまだ多い。
評論も同じだ。
(中略)
「僕は今日、一言も毒舌など言っていません。自分の信念と価値観に基づいて話したので、他人の信念や価値観と当たり前のようにぶつかっただけです。もしあれが毒舌に聞こえたのなら、それはあなたが信念や価値観と関係ないヌルい仕事をしているからですよ」と言い捨てて帰ってしまった。
岡田斗司夫はすごいなあ。こういうことを雑誌の日記コラムにサラッと書けるんだから。ちょっと引用しすぎかもしれないが、それでもやはり凄い視点の数々。